さあ、どんどんしまっちゃうからね
(意味不明)
普段は僕はアニメを見ません。「エヴァンゲリオン」というのも名前は知っていましたが、それだけでした。で、僕は2月15日の夜、何となくテレビをつけました。そこに「エヴァ」が写っていました。そして何となく見始めて、ついには朝の5時を迎えていました。こんなことは初めてです。うん、実に面白かった。
来週、自分にびっくりした。ビデオに撮っているのに、生で見ちゃうんだから。これだけ夢中になってテレビを見たのって、初めてじゃないかな。うん。こうして、映画封切りの3月15日の再放送の最終回まで毎週土曜日は夜にテレビを見ていた。
テレビ版もいろいろ言われているけど、弐拾四話までは文句なしに面白かった。それに、弐拾五,弐拾六話についても、ビデオで見直してみたら、「あれも一つの結末」として納得できる出来だと思う。ビデオで見直したときは実に面白かったし。問題があるとすると、一番最後の「おめでとうインパクト」だろう。あれがあまりにも唐突で、すべてを否定したくなる原因だと思う。
おめでとうインパクトはなぜまずいのか
あれがあったからこそ『新世紀エヴァンゲリオン』は未だに話題になるという人もいる。が、それは「見せる側」の理論である。という論法は一瞬説得力を持つ。が。
今回僕が問題にしているのは26話のほんとに、ラストの部分だけなのである。「ぼくはここにいてもいいんだ」と言うシンジ。目の前のガラスがわれて光が射し込んでくるイメージ。そこにあるのは現実の世界。が。
あけてみるとそこはユートピア
なぜか理想郷になっている。それも、やすっぽい理想郷。この意味上のそして映像上の落差が、視聴者をあきれさせてしまう。そして、現実感を取り戻してしまう。
あの、ヤマトのときに体験したトリップ感、生活が「ヤマトを見ているとき」と「それ以外」になっていた感覚をひさびさに体験させてくれた『新世紀エヴァンゲリオン』が、一瞬のうちに「安っぽい虚構」になってしまう。そしてヒゲの思惑通り、まんまと多くの人は
現実に帰り、
さらに多くの人はセガとガイナックスの思惑通り、まんまと自分の理想の『新世紀エヴァンゲリオン』から
現実に帰れなくなる。
おめでとうインパクト、万歳
と、こういう文脈がおめでとうインパクトです。
ほら、なっとくいかねえべ。