見る、ということ自体既にメタな娯楽だが。
例えば私は球場にいかない。テレビ中継も見ない。時間があっても見ないと思う。でも週刊ベースボールを時々買って好んで読む。好きな野球のウェブサイトが5、6個浮かぶ。王貞治のことは「国民栄誉賞」「聖域、55本」といった言葉が即座に(揶揄する表現として)浮かぶ。「川村花火店」「無事是名馬」も忘れがたい。
例えば私はアニメを見ない。時間があっても見ないと思うし、見たアニメと言えば宮崎アニメくらいだろうか。アニメージュも買わないし見たいとも思わない。でも好きなアニメのサイトが5、6個浮かぶ。しかし依然として「東京ミュウミュウ」が何者だかかけらもわかっていないし、映像とも結びつかない。「ご奉仕しますにゃん」というのも音声とも映像とも結びつかず、平然と活字のままだ。
例えば私はテレビ自体見ない。時間があっても見ないと思うし、部屋のテレビにはアンテナがつながっていない。しかし好きなテレビ関係のウェブサイトは1、2個浮かぶ。しかし依然として「あやや」の顔はわからないし、「松浦亜弥」と結びついたのも最近の話だ。ついでにいえば「なっち」はまだ芸名と結びついておりません。
こういうのは何だろう。
対象そのものへの興味はないし、下手をすると実体すら知らないけれど、それにまつわる文書を読むのは好きだ、という状態。
野球のケースはまだいい。「ネタにされている野球」が興味の対象だからだ。
これがアニメや芸能になると、「それに夢中になっているファンの行動や心理」が興味の対象となってしまっている。だから実際のアニメや芸能人を知らないまま楽しんでしまえるわけだ。
牛乳瓶のふたには興味はないけれど、「牛乳瓶のふたコレクター」は面白い、といえば共感が得られるだろうか。
こういうケースはまだある。
例えば私自身はクソゲーに興味はない。時間があっても遊びたいとは思わない。しかしデスクリムゾンがいかに伝説のゲームであるかは良く知っているような気がするし、「せっかくだから」という台詞を心から楽しんで使うことができる。おーのー。
これは野球と同列のケースだな。
私自身はちょっとずれるがこういうケースもある。以後の「私」は文章上の記載であって、この雑文の著者ではない。
例えば僕はテキストサイトに興味はない。サイトに行ったことがあるわけじゃないし時間があっても読みたいとは思わない。しかしネットウォッチ板を読むのは大好きだし、先行者ネタを揶揄することは心から楽しいと思う。バトルが起こればそのサイトを自分で読んだことはなくてもそのサイトのことを深く知っているような気分になるし、ネタにすることもできる。
これがアニメや芸能と同じレベル。
方向性をゆがめるとこういうこともできる。念のため再度強調すると次の文章の「僕」は私自身ではない。
例えば僕は北朝鮮問題に興味があるとかというとぜんぜんないし、実は38度線なんてこともよく分からない。ベルリンの壁とどうちがうの? という状態だ。しかし日本に来た拉致者の報道を見るのは非常に面白いし、すっかり詳しくなった気がする。やっぱり彼らを北朝鮮に帰すべきではないと思う。
ところでこの雑文の著者である「私」の実体はというと、日本に来ている人の名前を挙げろ、と言われても自信なさげに「ヨコタメグミさん?」という状態であり、映像ではひとりも認識できない。ここまで無関心でいるのもどうかと思うが、まあそんなものなのだろう。
本質からずれたが、こういう指向の持ち主は他にもいるのだろうか。
例えば彼はバンドに興味はない。高校の文化祭でどうしょうもないバンドに参加したことはあるが、それもつきあいでしかなかった。しかしかれは「ロッキングオン」を好んで読むし、CDはまったく聴いたことがないが旬のバンドについて良く知っている気がする。メンポ記事はある意味最高の娯楽だと思う。しかし「ボーカル希望。ギター、ベース、ドラム募集」はいったい何を考えているのか思う。この希望者に歌いたい音楽が本当にあるのか。小一時間と言わず問いつめたい。問いつめたい。
上のような文章を書く私自身はもちろんバンドを組んだこともなければ、ロッキングオンを読んだことがあるわけでもない。メンポのおもしろさに関する記載をどこかで楽しく読んだ記憶はあるが、どこかは覚えていない。しかしこういう内容をいいかげんに想像して書くのは楽しい。
そしてまた、一切合切興味はないが、こういうメタっぽい雑文を読む人が好きな人もいるだろう。そういう人を期待してこの雑文は書かれたし、私自信もこういうネタは好きだ。