第62回「インフォームド・コンセント」(00.10.23)

私立K病院は、患者本人に「告知をする」というポリシィをもって運営されている。実際、告知によりがっくりと肩をおとしてしまう人より、それなら、とよりよい終末に向かおう、とする人が多かった。まあ、いってみればホスピスの役割を果たしていたのだろう。実際、「がん」という病気はやっかいだ。

「告知はしないでいただきたいんです」

末期的な癌にかかった男の婦人が言った。夫はまだ40、婦人に至ってはまだ20代であった。

「この病院の方針はご存じでしょうか。「告知をする」というポリシィの上に行動しております。今回のような深刻なケースであっても、それを受け入れる──そう、受け入れることでよりよい生活ができる、というのが私どもの考え方です。幸い世間にもそのような評判ができて、そのためにここに検査に来られる方も多く、ご主人の場合もそうだったはずですが」

「存じてます。その上で、告知をしないでいただきたいんです」
「しかしですね……」私は困惑しつつなだめにかかる。

こういうケースは珍しくない。告知をするポリシィである、ということを気にするのは検査を受ける本人だけで、いざ致命的な病気であると分かったときにならないと周りの者は考えないのだ。

そのうえで、多くの病院で屋患者や家族を見て適当に判断する。──正直なところ、K病院の本音としては個別の判断が面倒だから告知をする、というポリシィを採用したのだが──まあ、このケースの対応ははっきりしている。最終的には告知してしまうのだ。本当は、検査の結果を最初に告げるのは本人、とまで徹底したいのだが、それを日本でやると、かえってパニックを引き落とすことが、半年の悪夢の結果分かったのだ。

かくして蕩々と説得を始める。

「いいですか、この病院では、検査時に患者さんと『検査の結果には嘘をつかない』という契約書を交わしているのです。嘘をつくことはできません。」
「私の気持ちは考えていただけないでしょうか」
「そんなことはありません。現に、いまもご主人に告知をする前にこうしてお話をしています」
「だったら告知をしないでおいていただけないでしょうか」
「契約上の問題もあるし、なにより、この病院は患者にうそをつかない、というご理解をみなさんにいただいています。自分の病気を知らないままお亡くなりになるのはいやだという本人の意思を尊重します」

私の態度がゆるがないことを確認したのだろうか、婦人は口を閉ざす。──沈黙が10秒くらいあったろうか。ふっ、と空気がゆるむ。これでおさまったかな、と思ったら、婦人の表情がかわった。

「分かりました。本当の理由をお話しましょう」

腹をくくった調子で言い始めた。いままでの懇願するような口調とうってかわって、しっかりした声である。

「最近のがん保険は生前に保険がおりるんです」

その一言で、事情は理解できた気がした。

「まさか、それだけで」
「それだけじゃありません。その使い道が問題なんです」
「使い道?」
「そうです。もう死ぬんだから、最期にぱっと、といっていました。まあ私も、贅沢に旅行をする、とか、そういう使い方であれば止めません。でも、夫の使い方は許せません」
「何故使い道を知っているのですか?」
「先週、『もし保険が下りたらどうする?』みたいなこと話したんです。『宝くじが当たったら?』みたいなものです。よく架空の話でけんかになるでしょう? あれです」

婦人は吐き捨てるように言った。

「そのけんかが、先週あったばかりなんです。保険にそのとき入ったから──いま告知なんかされたら、むきになって本当にやりそうで──」

童顔で、変な──失礼だが──旦那の顔がうかんだ。──さもありなん。

「だんなさんはなににお使いになると?」
「お話ししたら告知しないでくださる?」
「それは……難しいです」
「聞くのであれば、約束がほしいわ。なんなら、保険金全額差し上げてもかまいません。あんなくだらないことにお金を使われるくらいなら、他人であるあなたに、私の知らないところでお金をつかって持った方がましです」
「──聞きましょう」

私は沈黙を守った。
──二週間後、男は自殺した。


一般の生命保険の場合、契約直後の自殺の場合、保険適用外となるのだが、さて……診断書自体はそれ以前の日付で書かれている……

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