第6回 ゲームのシナリオとは?(97.11)

 えっと、FF7のゲームレビューのところでもちらっと書きましたが、僕はRPGのシナリオに小説や映画のような感動を期待していません。こういったことに関して、雑誌にコラムがあったのでそれをふまえて書いてみます。

 話の種は、電撃プレイステーション(雑誌)Vol59〜62の、いわさきひろまさ氏のコラム、「PlayStationプログラムパワーチェック」です。「ゲームとシナリオの関係」をタイトルに書いているのですが、私がなんとなく思っていたことをある程度文章化してくれたので。

 とりあえず私なりの要約。

59号

シナリオを語る上で一番問題になるのは、多くのゲームの「主人公=プレイヤーキャラクター」という形式。それはつまり、シナリオを書く側にとって、シナリオを演じる役者のレベルがバラバラで、しかもその役者はシナリオを知らずに舞台に立つ、ということである。(私が思うに、さらに、その役者自身が観客でもあり、その多くを楽しませなければいけない)

60号

その制約の中、どうやって対立関係を作るか。設定として強引に組み込む(おお、勇者よ!のたぐい)か、イベントで何らかの争いに巻き込まれる(ファイヤーエンブレム)か、長いプレストーリーをプレイさせる(ドラクエ5みたいなの)、といったところか。

61号

その対立関係の解消が難しいほど、それが達成されるときの感動は大きい。しかし、ゲームにその手法を持ち込んでも、「理不尽に難しいだけ」となってしまう。

62号

一般のシナリオ上では、主人公に「劇的欲求」をもたせるのは簡単だが、ゲームをプレイするプレイヤーにある劇的欲求は「エンディング」、とくに「ハッピーエンディング」が見たい、というものである。ゆえに、ゲームのシナリオは大きく制約を受ける。

 さて、個人的には、

「ゲームは面白い、というのが基本」

で、「シナリオで感動は2の次」です。シナリオに無関係に面白いゲームはいくらでもありますし。逆に、シナリオがあってこそ面白いゲームはほんとに少ない。その上で、

「シナリオで感動させるゲーム」とは?

 つまり、「あー、このゲーム面白かった」のなかに、「このゲームのシナリオ、すっごい感動的だった」と言う思いが強く含まれるソフトとは?

 まず、個人的に成功していると思っている形。

 「ポリスノーツ」、「虹色の青春」の形式のアドベンチャー。前者は、「プレイヤーが仮想的に主人公、ジョナサンを演じる形」として、後者は「プレイヤーが等身大の自分として「主人公」を演じる形」として、「シナリオ自体が楽しめる」ゲームになっています。

 とはいってみたものの、後者にしても、実は「普通の高校の普通のサッカー部員」という、容易に想像できる対象だから、「等身大」に感じるだけで、本質的な違いはありません。

 さて、いずれにせよこの形式、実にうまく「シナリオ自体のおもしろさ」が「ゲームのおもしろさ」と同化しています。

 もちろん、「小説や映画と違ったおもしろさ」も内包しています。まず、共通していえるのはある程度の行動は自分で指定すること。それによって、あらゆる場面転換が(プレイヤーにとって)自然に行われます。また、ミニゲームによる「主人公への感情移入」。ポリスノーツの射撃。ゲーム後半のジョナサンの異常な強さをそんなに違和感なく「自分の強さ」と同化できる。虹色の青春のサッカーゲーム。「主人公の上達=プレイヤーの上達」ですね。

 そして。この手法においては、バッドエンドも、小説や映画と同じような次元で、「あり」だと思う。それが一般的に受け入れられるかは別にして。なんだかんだだいっても、一般的に物語を読むときは、「ハッピーエンド」を期待するのだから。

 いわゆる「サウンドノベル」もここでとりあげるべきゲームなのでしょうが、やったことないのでノーコメント。(そのうえで、見当違いを承知で、あえて書くと、プレイヤーに「シナリオの演出」が許されていて、それに無理を生じさせないほど細かく「分岐したシナリオ」が存在している、というもの。つまりこれは、「役者を選ばない」というより、「演出家を選ばない」ゲーム、といったほうがいいかも。)

さて、ではRPGにおけるシナリオとは?

 多くのRPGにおいて、僕にとっての「シナリオ」というのは、「ゲームの続きをプレイさせる動機付け」であって、「シナリオの続きが知りたくなる」動機付けではありません。そういう意味で、全体でいくら破綻していようと、FF7のシナリオというのは、そんなに悪いものではないと思っています。

 RPGにおけるシナリオ上の制約、ということに「主人公=プレイヤー=観客」であることをコラムではいっていました。これに対処する方法もコラムにありました。今のところこれについては論じません。

 RPGという形式には、もうひとつのシナリオ上の制約があると思っています。一般的に、RPGのゲームとしての流れは、「通常戦闘の繰り返し」→「レベルアップ」→「ボスに勝つ」です。これに伴う、ゲーム上の感覚は「達成感」です。これがシナリオにどう影響するかというと、何かを成し遂げた、というシナリオは受け入れやすくなります。これはいいです。問題は、悲観的なシナリオは受け入れにくいだけでなく、違和感を生み出しやすいということですね。もちろん、「やけに弱いボス」→「それは偽物で、君たちはおとりにひっかかったんだよ」というストーリーなら無理はないですが。あくまで、シナリオの一部における悲劇ですが。

 一番この構造が問題となるのはエンディングです。つまり、基本的に「ハッピーエンディング」意外は感情的にしっくりこないのです。それも、「達成感」を基本とした感情の。これはきつい制約ですよ。

 つまり、どういうことが言いたいかというと、成長するのがRPGですから、その行き着く先は「達成」であるべきだ、という強烈な予定調和がある、ということです。使徒がいなくなってもうだうだしているようではまずいわけです。

 では、どうすればシナリオをゲームのおもしろさの中心に据えることができるか。すぐ思いつくのが、「通常戦闘のないRPG」、つまり「フィールドのあるADV」という形です。「MOON」なんかそうらしい(って、買う気もやってみる気もないんだけど)。でも、この形だと、どうしても「フィールドを歩く時間」がゲームの大部分を占めることになる。すると、間を持たせるためのミニイベント、といったものがくっついてきて、それがゲームの印象を左右することになりそうだ。

うーむ。

シナリオは「ゲームの続きをプレイさせる動機付け」でいいじゃん。

 ああ、うまく結論が導けなかった。

 けっきょく、コナミのアドベンチャーはすばらしい、で終わっちゃったじゃないか。

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